5月7日(火)
今日はパリから次の公演の地への移動。7時30分に出発。広いフランスの大地をひたすら東に走る。ランスを過ぎ、ナンシーを過ぎ、St-die-des-vosges という町へたどり着いたのは午後3時だった。小さな町のホールだ。入り口にはベーレンコールのポスターが貼られている。
いよいよ2回目のコンサートである。ここは音響がよくない。きけば、もともと映画館だったようで、一回席はステージから下り坂になっている。
6時までリハーサル。声にやや疲れがあるか。リハーサル後、ホストファミリーが迎えに来てそれぞれの家で夕食。
本番は8時30分より始まる。シャロンよりはお客の入りは多そうである。前半、ヨーロッパの古典とプーランクのミサ全曲を演奏。後半は浴衣と法被を着用、大変うけたようだ。ここでも大喝采をいただき、大成功。
5月8日(水)
この日はフランスの終戦記念日だそうで、祝日。
午後3時30分。ホール前にホームスティのメンバーがホストに連れられて集まってきた。たった一晩ではあっても、別れは辛い。抱き合って別れを惜しむ姿が感動的だった。
バスは一路ナンシーへ。ナンシー市の合唱祭事務局を全員で訪れ事務局の歓迎を受ける。私たちもそこで「さくら」の合唱。ベーレンを担当してくれるのはLes Hurte Loupsという合唱団の皆さんだ。大学の学生食堂で夕食。ビュッフェ形式で自分の食べたい料理を取る。その後フェスティバルのオープニング公演オペレッタ「パリの生活」を鑑賞しにゼニットという会場に行く。登場する200名以上の合唱団はナンシー周辺のアマチュア合唱団のメンバーだそうだ。その指導を担当したのがドゥニ・デュペイ先生だ。会場でデュペイ先生が出迎えてくれた。1年ぶりの再会であった。来てくれて本当に嬉しいと、おっしゃっておられた。
公演は11時頃までかかる長いものだった。オペレッタの面白さはコミカルな台詞にあるのだが、会場が受けて爆笑しているのに私たちには意味が分からない。言葉が理解できないことの侘びしさを感じてしまった。オーケストラ、ソリストは実力のある人たちであった。合唱団はやはりアマチュアで演技にどことなくぎこちなさがあったが、熱演していた。さぞかし終演後の満足感は大きかったことだろう。最後のフレンチカンカンで盛り上がり、公演は終了。バスに乗り、50分近くかかって、ホストファミリーの待つLoisyという地区の公民館へ到着。もう12時近い。ファミリーが紹介され、ワインで乾杯、互いに合唱を披露しあい、それぞれの家へ。もう深夜1時を過ぎている。
5月9日(木)
10時30分頃、Loisyの公民館へ。40分ほど練習。疲れもそれほどないようで一安心。
昼食はメンバーのホームスティ先におじゃまし、一緒にご馳走になった。2時間あまりかけて会話を楽しみながらゆっくりいただく昼食だった。15分あまりで昼飯をかき込んでいた日本とは違い、食事は憩いであり、文化であると考えさせられた。ヨーロッパの家庭料理、どのレストランよりも美味しい。
ホストファミリーの車でナンシーへ移動。合同合唱のリハーサル。
Palais Conglesというホールの移動し、いよいよコンサートだ。私たちの出演するコンサートはロシアの少年合唱団、ポルトガルの合唱団とのジョイントコンサートである。オープニングに各ホスト合唱団の演奏。私たちのホストLes Hurte Loupsの皆さんもポップス系の作品を数曲演奏してくれた。
ロシアの子どもたち、長旅の疲れもあるのか、体調の悪そうな子どももいた。バラライカの伴奏によるロシア民謡、会場が盛り上がった。ロシア民謡は世界中の人に歌われている。
いよいよベーレンのステージだ。今日は、とても落ち着いた気持ちでステージに立てた。前半のヨーロッパのステージ、予想以上に大きな拍手をいただいた。一階席は超満員であった。今回のツアーでもっとも大勢の聴衆のコンサートであった。後半の日本ステージ、浴衣と法被に着替え演奏。私も浴衣を着た。これは熱烈な拍手をいただいた。立ち上がっている聴衆もいた。こんなに暖かく、熱のこもった拍手を私たちは初めて受けたように思った。とても幸せなコンサートになった。とてもいい気持ちでそれぞれのホストと帰宅していった。

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